古い団地の「三つのインターホン」
ある程度年齢を重ねてきますとね、「あれは説明がつかないな」と今でも引っかかっている出来事が、ひとつやふたつあるものです。
きょうは、私がまだ二十代の頃、引っ越しのアルバイトをしていた時に体験した話をさせていただきます。
舞台は、とある地方都市の古い団地。夏の盛りにそこで起きたことを思い出すたび、いまだに玄関のインターホンを押すのが、少しだけ怖くなるんですよ。
第一章 「三号棟の最上階には行くな」
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その団地の仕事は、かなり頻繁に入っていました。
昭和の終わり頃に建てられた四階建ての団地が、ずらっと五棟並んでいる。エレベーターなんて洒落たものはなくて、全部階段です。夏場はそれだけで地獄のような現場でした。
で、その団地には、妙な噂があったんです。
現場をよく知る同じバイトの先輩が、最初の日にこう言いました。
「三号棟の四階、端っこの部屋だけは絶対に行くなよ。荷物がなくても、絶対な」
冗談半分の様子でしたが、妙に真顔で言うんです。
理由を聞くと、先輩は肩をすくめて笑いました。
「インターホンが三つある部屋なんだよ。あそこだけな」
当時の私には、その意味がよくわかりませんでした。
古い団地ですから、増設工事でもしたのかと思ったんですね。
「三つあったら何かまずいんですか?」
そう聞くと、先輩は少し声をひそめました。
「一つ目は、普通のインターホンだろ。二つ目は、呼んだら“帰って来るやつ”用だってよ。で……三つ目は、“帰って来るな”ってやつ用」
訳のわからないことを言うな、と思いましたよ。
でも、三号棟での仕事では、なぜか本当に四階の端の部屋に行くことはありませんでした。
配車表にも、その番号だけぽっかり抜けている。そういうものか、と深く考えもせずにいたんです。
第二章 夏の終わり、配車表の「抜け」
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問題の部屋に関わることになったのは、八月も終わりかけの、やけに湿気の多い日でした。
その日は人手が足りず、先輩ではなく、私が荷台の責任者みたいな立場で動くことになったんです。
朝、事務所で配車表を受け取ると、そこには見慣れた団地の名前と部屋番号がずらっと並んでいました。
ざっと目を通して、私はふっと眉をひそめたんです。
「……あれ? 今日は、三号棟の四階、端の部屋、あるじゃないですか」
紙には、はっきりとその部屋番号が書かれていました。
事務員に確認してみると、「ああ、そこ今日退去だよ。何か問題ある?」と首をかしげます。
先輩の言葉が頭をよぎりましたが、あいにくその先輩はその日休み。
他のメンバーに聞いても、「ああ、なんか変な噂あったよな。気にすんな気にすんな」と笑って取り合いません。
仕事は仕事ですからね。
私たちはトラックを走らせ、その団地に向かいました。
午前中は他の棟を回り、荷物の運び出しをこなしていきます。
汗だくになりながら階段を上り下りして、気づけば夕方が近づいていました。
最後に残ったのが、例の三号棟四階の端の部屋。
時間にして、午後四時を少し回ったころだったと思います。
空はまだ明るいのに、廊下だけやけに薄暗く感じたのを覚えています。
「じゃ、さっさと終わらせようぜ」
同僚の一人がそう言って、三号棟の階段を駆け上がっていきました。
私は配車表を見ながら、息を整えつつその後を追い、四階まで上がります。
四階の踊り場に出た瞬間、ふっと空気がひやりと変わった気がしました。
さっきまで耳障りだった蝉の声が、急に遠くなったような……あの、テレビの音量を一段階だけ下げたときの、妙な静けさに似ていました。
「……気のせいだろ」
自分にそう言い聞かせながら、私は端の部屋の前に立ちました。
第三章 ドアの横に並ぶ「三つの目」
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そこには、確かにドアの横にインターホンが三つ並んでいました。
縦に三つ、古い銀色のボタンが、じっとこちらを見ているように感じました。
一番上には、色あせたテプラで「呼び出し」と貼ってあります。
真ん中には何も書いていない。
一番下には、かすれて読みにくい字で、「非常時」とだけ。
「なんだこれ……増設どころじゃないな」
同僚が不思議そうに指を伸ばして、いちばん上のボタンをぐっと押しました。
団地にありがちな、細い電子音が鳴ります。
しかし、部屋の中からの反応はありません。
「留守かな? 退去だから鍵開いてんじゃないの?」
そう言いながら、同僚がドアノブを回すと、あっさりとドアは開きました。
中は、ほぼ空っぽでした。
床に新聞紙が敷かれ、部屋の隅には粗大ごみになりそうな古いタンスがひとつだけ。
カーテンは外され、窓から入る夕方の光が、白い壁紙をうすく染めていました。
「なんだよ、普通じゃん。怖がらせやがって」
同僚はそう言って笑いましたが、私は玄関先からしばらく動けませんでした。
理由はうまく説明できませんが、部屋の中の「音」が変だったんです。
何もないはずなのに、誰かが、少し前までここで生活していた気配が残っている。
使い古された空気だけが、ぬるい湯気みたいに漂っているような、そんな感じでした。
「おーい、台所から順に見てくぞー!」
同僚に促されるように、私はようやく靴を脱ぎ、部屋に上がりました。
それからしばらく、私たちは分担して部屋の中を確認しました。
不用品がないか、壁や床に目立つ破損はないか。退去の確認も、仕事の一部です。
何も、変わったものはありませんでした。
クローゼットの中も空っぽ。押し入れにも、上段にも下段にも、異常なし。
「……なあ、ここ」
最後に見たのは、和室の隅にあった押し入れの天袋でした。
同僚がふいに声をひそめて、私を手招きします。
押し入れの上のほう、天井との境目の木枠に、細い鉛筆のようなもので何かが書かれていました。
天井に近くて読みづらかったのですが、目を凝らしてみると、小さな字がぎっしりと並んでいるのがわかります。
「……いちどめ、にどめ、さんどめ……?」
そこには、日付とともに「来た」「帰った」と書かれたメモのようなものが、何十行も続いていました。
〇月〇日 一度目 来た
〇月〇日 二度目 来た
〇月〇日 一度目 帰った
〇月〇日 三度目 来た
そんなふうに、来たり帰ったりした記録のようなものが、延々と続いているんです。
「何これ、誰のメモだよ」
同僚が笑いながら言いましたが、私はその時すでに、背中に嫌な汗が流れていました。
書き方に、妙な規則性があるように見えたからです。
よく見ていくと、「帰った」と書いてある行は、必ず「一度目」か「二度目」のどちらかなんです。
「三度目」に関しては、全部「来た」で終わっている。
そして、そのあとには何も書かれていない。
「三度目で来たやつは、帰ってない……?」
そうつぶやいたとき、玄関のほうから、電子音が鳴りました。
ピンポーン。
ドアのインターホンです。
私と同僚は、顔を見合わせました。
「……管理人か?」
同僚がそう言って、玄関のほうへ歩いていきました。
私も後を追おうとしたそのとき、もう一度チャイムが鳴りました。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
さっきより、少しせっかちな鳴らし方でした。
「はいはい、今開けますよー!」
同僚がそう声を上げてドアノブに手をかけた瞬間、私は違和感に気づきました。
ドアの向こうから聞こえてくるチャイムの音の高さと、さっき部屋の外で押したときの音が、微妙に違うんです。
もっと言うと、音が少し濁っている。
例えるなら、錆びたベルを無理やり鳴らしているような、そんな嫌な響き方でした。
「ちょ、待て!」
私は慌てて同僚の肩をつかみました。
しかし、その手より早く、玄関のドアは開いてしまいました。
外には、誰もいませんでした。
薄暗い廊下が、真っ直ぐ伸びているだけ。
一番奥の非常階段まで、すべて見通せるのに、人影はひとつもありません。
「……あれ?」
同僚が首をかしげた次の瞬間、背後で、別のインターホンの音がしました。
ピン、ポン。
さっきの濁った音とは違う、澄んだ電子音。
その音が、私のすぐ横から聞こえた気がして、反射的にそちらを振り向きました。
壁に並んだ、三つのインターホン。
上のボタンのランプは消えたまま。
真ん中のボタンのランプが、ぼんやりとオレンジ色に光っていました。
誰も押していないのに、光っているんです。
「おい、閉めろ!」
私は叫びました。
理由は説明できません。ただ、本能的に、ドアを閉めないとまずいと思ったんです。
同僚が慌ててドアを閉めようとしたその瞬間――
外の廊下の、こちらから三つ隣の部屋の前に、「誰か」が立っているのが見えました。
距離にして十数メートルは離れています。
だから顔までははっきり見えなかった。
ですが、背格好といい、着ているTシャツの色といい、あれはどう見ても――
「……おい、俺、じゃないか?」
そこに立っていたのは、私と同じ服装、同じ髪型をした「誰か」でした。
ゆっくりとこちらに顔を向ける。
ぼやけていてもわかるくらい、口元が不自然な角度で吊り上がっていました。
笑っている、というより、裂けているような笑い方でした。
次の瞬間、真ん中のインターホンのランプがふっと消え、今度は一番下の「非常時」と書かれたボタンのランプが、じわりと灯りました。
そこでようやく、私は天袋のメモの意味を理解しました。
一度目、二度目、三度目。
インターホンを押された、その回数。
三度目で来たものは、帰らない。
だから、「帰って来るな」と書かれた三つ目のボタンがある。
私は腕を振りほどくようにして、ドアに飛びつきました。
同僚の肩を押しのけ、勢いよくドアを閉めます。
バタン!
その瞬間、ドアの向こう側から、何かがぬるりと押し返してくる感触がありました。
人の手にしては、あまりにも冷たくて、あまりにも柔らかい感触でした。
「押さえろ!!」
同僚と二人で、必死にドアを押さえました。
インターホンの電子音が、耳元で狂ったように鳴り響きます。
ピンポンピンポンピンポンピンポン――!
上のボタンか、真ん中か、下か。
どれが鳴っているのか、もう区別がつきません。
ただ、ドアの隙間から、何か湿ったものがにじみ出ようとしているのが見えました。
何秒か、何分か、押し合っていたのか、よく覚えていません。
不意に、ふっと抵抗が消えました。
チャイムの音も、ぴたりと止みました。
私たちはしばらくその場で固まっていましたが、やがておそるおそるドアを開けました。
廊下には、誰もいませんでした。
床にも、壁にも、さっきの「湿ったもの」の痕跡は、何ひとつ残っていませんでした。
第四章 「三度目」は誰だったのか
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その日、私たちはそれ以上その部屋に長居することなく、簡単に片付けだけ済ませて退散しました。
廊下を降りるときも、誰も口を開かなかった。
ただ、階段の踊り場の窓に映る自分の姿が、さっき見た「誰か」と重なって見えて、背筋が冷たくなるのを感じていました。
事務所に戻ってから、私はあの団地に詳しい先輩を捕まえて、話をしました。
先輩は、珍しく真剣な顔で聞いていましたが、一通り話し終えると、深いため息をつきました。
「……お前、三回鳴らされたんだな」
「三回、ですか」
「最初、外から一回。次、中にいるときに押された。最後に、あの“濁った音”のやつだ」
先輩は、ゆっくりと指を一本ずつ折り曲げながら数えて見せました。
「あの部屋な、昔、住んでた家族の子どもが行方不明になってるんだよ。まだ小学生だったらしい。帰ってこないからって、家中にメモ書いてたんだと。“何度目で来るか”“何度目で帰るか”ってな」
私は、押し入れの天袋のメモを思い出しました。
先輩は続けます。
「その子、最後の日ね、“三回目で来たら、一緒に行く”って書いてたらしいんだ。親が見つけたのは、いなくなったあとだったって話だけどな」
ぞっとしました。
「じゃあ、あれは……」
「さあな」
先輩は、私の顔をまっすぐ見て言いました。
「ただな。あそこに入る業者には、“インターホンには触るな”って、本当は管理会社から通達出てんだよ。お前らに伝え忘れてたってさ」
そんな大事なことを、と腹が立ちましたが、同時に、あの三つのインターホンの光が頭から離れませんでした。
一つ目は、普通の訪問者。
二つ目は、「帰ってくるやつ」。
そして三つ目は、「帰って来るな」と祈りを込めて押すためのもの。
三度目で来たものは、もう帰らない。
でも、三度目に来た「それ」が、どこへ行くのかは、誰にもわからない。
あれから何年も経ちますが、私はいまだに、夜遅くに自分の部屋のインターホンが鳴ると、回数を数えてしまいます。
一度目……二度目……三度目。
三回目が鳴る前に、息を潜めて、動けなくなってしまうんです。
幸い、今のところ三度目までは鳴っていません。
ですが、もしもあなたの家で、今夜インターホンが三度鳴ったら――そのとき、ドアの覗き穴の向こうに立っているのは、本当にあなたの知っている人でしょうかね。
少なくとも私は、もう、三度目に来た相手には、ドアを開ける勇気はありません。
まとめ
団地やマンションのインターホンというのは、本来、こちらと外をつなぐ便利な道具のはずです。
ですが、便利であるということは、それだけ「何か別のもの」をも招き入れやすい、ということでもあります。
今回お話ししたのは、古い団地にあった「三つのインターホン」の部屋で体験した出来事でした。
一見するとただの古い設備に見えるものでも、そこに住んでいた人たちの願いや恐怖が染みついて、奇妙なルールや「回数」に縛られた、別の扉に変わってしまうことがあるのかもしれません。
もしあなたの周りにも、なぜか誰も住みたがらない部屋や、妙にインターホンの多い家があったら……
もしかするとそこにも、「一度目」「二度目」「三度目」と数えられている何かが、静かに出入りしているのかもしれませんね。
あくまでこれは、私が体験した、ひとつの怪談にすぎません。
ただ、今夜眠る前に、玄関のほうから聞こえてくる電子音の回数だけは、どうかよく覚えておいてください。
